「わたしは主を見た」 柳澤宗光牧師

イザヤ書42章10-16節 / ヨハネによる福音書20章1-18節 2026年4月5日

復活祭は、教会にとって一年の中心です。私たちは「主は復活された」と喜びをもって告白します。しかし、復活の物語が最初に描くのは、歓声ではなく、墓の前で涙するマグダラのマリアの姿です。彼女は「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」(ヨハ20:1)墓へ行きました。この「まだ暗いうちに」は、彼女の心の状態でもありました。私たちの人生にも、答えが見えず、祈ってもなお暗い時があります。


マリアは空の墓を見て混乱し、弟子たちに知らせます。しかし弟子たちは理解できないまま帰ってしまい、マリアだけがその場にとどまって泣いていました。ここに大切なことがあります。復活の主は、涙する者のところに来てくださるのです。主は彼女に「なぜ泣いているのか。」(ヨハ20:15)と問いかけ、「マリア」と名を呼ばれます。その一言で、彼女の闇は破られました。復活とは、主が名を呼び、私たちがその声を聞く出来事です。


ここでイザヤ書の言葉が重なります。「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、行く手の闇を光に変える。見捨てることはない」(イザ42:16)。マリアは何も見えていませんでした。しかし主は見捨てず、名を呼び、進むべき道を備えられたのです。


そして主イエスは、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」(ヨハ20:17)と命じられます。マリアは、主を自分のもとに引き留めるのではなく、主に遣わされる者となりました。そして弟子たちのところへ行き、「わたしは主を見ました」(ヨハ20:18)と告げます。涙の人が、証し人へと変えられたのです。


復活は、ただ慰めを受ける出来事ではありません。主に出会った者が、誰かのもとへ遣わされる出来事です。私たちもまた、礼拝の中で、祈りの中で、苦しみの中で、主に名を呼ばれています。復活の主は今も私たちを見捨てず、闇を光に変え、新しい道へと導いてくださいます。だから私たちも、それぞれの歩みの中で告白することができるのです。「わたしは主を見ました」と。

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