「わたしにすがりつくのはよしなさい」明星晃牧師
ヨハネによる福音書20章11-18節 / フィリピの信徒への手紙2章1-11節 2026年3月29日
今日は「棕梠の主日」です。 主イエスがエルサレムに来られると聞いた大勢の群衆はナツメヤシ(棕梠)の枝をもって迎えに出て『主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に』(ヨハネ福音書12:12-13)と叫び続けました。『イスラエルの王に』に、つまり「政治的・軍事的な英雄への期待」、人間の力への尊崇を主イエスに投射したのでした。特異な力があると信じられた人間(教祖)に宗教的に帰依する、自分の人生を委ねてしまうことは、現代でも社会的な問題として珍しくありません。
さて、復活された主イエスは『まずマグダラのマリアにご自身を現わされ』(マルコ16:9)ました。以前、主イエスに七つの悪霊を追い出していただいた女性です。重い病気や身の不幸などの重荷を負う辛い人生が、主イエスとの出会いによって癒され、身近に献身的に仕えて宣教の旅にも同行し、充実の人生に代えていただいたのは『わたしの主』(ヨハネ20:13)である“人間イエス”だったのでした。
その“主”イエスが十字架刑に処せられた時、『そばには、その母と…マグダラのマリアが立って』(ヨハネ19:25)いました。彼女の主イエスへの深く強い情愛さが伺われます。その主イエスが亡くなり、埋葬された墓で一人涙する彼女に、最初に復活のご自身を現わされた主イエスは語り掛けます。『婦人よ、なぜ泣いているのか』。天使が同じ問い掛けをしたときにマリアは『わたしの主が取り去られた』と、そして主イエスには『わたしが、あの方を引き取ります』と答えました。主イエスに対する「人間的な情愛の深さ、尊崇の強さ」であり、それは十字架の死の以前のマリアの心情に時間を引き戻している行為だと言えます。『マリア』、主イエスの呼びかけに思わずマリアは主イエスに『すがりついた』のでした。『すがりつく』。つまり、十字架の死の前の主イエスとして『引き取り』(:15)、主イエスの「死と復活」の出来事のご計画を“無にする”行為だと言えます。
「すがりつく」の原語haptouには「灯りを灯す・身に触れる」の意味があります。一つの行為が次の行為を導き出す意志を伴ったものと言えます。福音書では主イエスの癒しの御業に関連して主が、あるいは願う人が『触れる』行為に使われている言葉です。
主イエスは『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから』と仰言いました。ヨハネ福音書の記述はありませんが、主イエスはご自身の「十字架の死と復活の意味」を仰言いました。生前の福音の宣教に常に触れておられた真実です。
マリアは即座に“気づき”ました! その真実を知る賢さ、神への信仰の確かさが、主イエスの御言葉を真っ直ぐに理解したのです。つまり、人間的心情に支配された自分のもとに主イエスを引き戻そうとした過ちを。十字架と復活の出来事、それは主イエスが神様の御許に上り、神の御子になると解る「心の転回=回心」が生じたのでした。
マリアは、『わたしは主を見ました』と弟子たちに証言し、『また、主から言われたことを伝え』(20:18)て、弟子たちとの新しい生活、「聖徒の交わり」(使徒信条)に入り、その後はみ言葉の宣教者へ、いわゆる「修道」の生涯を送ったと言われます。
人間イエスへの深く強い情愛から、すべては『父なる神様』のご計画に従順だった主イエスの『神の御子』のみ業、人間への深い、強い神の御心、愛のみが成せる“奇蹟のみ業”であると信じた、まさに自分を捨てた「マグダラのマリアの回心」であり、それこそが「奇跡」ではないでしょうか。神様と人間との間を繋ぐ主イエスを、永遠の命の徴として与えてくださった、主の兄弟姉妹には「解る」復活の奇蹟であると言えます。