「わたしはぶどうの木」 森史子牧師

イザヤ書5章1-2節 / ヨハネによる福音書15章1-8節   2026年3月22日

 聖書にはぶどうの話が、よく出てきます。旧約ではイザヤ書5:1~7に「ぶどう畑の歌」があります。ぶどう畑の持ち主は、良いぶどうが育つようにと一生懸命土地を掘り起こして、ゴロゴロ混じっている石を取り除き、良い地になるように手をかけています。また人間や動物が荒らさないように見張りの塔を立て、良いぶどうが実るのを待っていた。5:2「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」このぶどう畑の持ち主は「神さま」です。そして、ぶどう畑は「イスラエル(ユダ)の人々」です。


この箇所は、イスラエルの霊的状況をぶどう畑にたとえて語っています。
神はイスラエルがどんな状況であっても、愛されました。それは収穫を期待していたからです。イスラエルが自分の神を崇め、公正と正義を行う神の国民となる事を期待したのです。イスラエルは神の期待を裏切り、失望させてしまいました。


こんなに神の恵みを受けているのに、どうして甘い良い実にならなかったのでしょう。
見かけは甘そうに見えるが、中身は酸っぱい!イスラエルは、「我こそは神の民」神に選ばれた国民である(選民意識)に支配されていたのです。本来持つべき神への感謝、従順、献身の思いを忘れ、神を捨ててしまったのです。神さまは、これ以上彼らに手をかけるのをお辞めになりました。今も神はイスラエルが、イエス・キリストを信じ救われるのを待っておられます。


新約聖書ヨハネ15:1~8でもぶどうの木のたとえが使われています。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」主イエスの言葉です。神を裏切り続けた人間に赦しを与えるために、天からキリスト・イエスを遣わされた父なる神さま。この方こそ、この世にまことのぶどうの木を植えてくださったまことの農夫です。
そして、私たちが枝なのです。枝は木に繋がっていなければ、身を結ぶことができないように、私たちも主イエスと繋がっていなければ実を結ぶ事はできません。15:5「わたしを離れては、あなた方は何もできないからである」その通りです。


私たちの身代わりに十字架で死んでくださったイエスさまのぶどうの木には、十字架の切り口があります。そこに自分の切り口が継ぎ合わされると、イエスさまの命が私たちに流れてきます。「人がわたしに繋がっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」 主イエスは「繋がっていなさい」と何度も言われています。それほど、重要なことなのです。繋がっていなければ、霊的に死んでしまうからです。


イエス・キリストに出会い、以前の生き方(古い自分)を捨てて聖書の言葉(神の言葉)に従って生きる決心をしたその決心こそが、あなたの切り口です。
イエスさまの十字架の切り口を見つけたら、直ちにつぎ木して頂きましょう。
そして、豊かな実を結ぶ人生を歩みたいですね。 感謝。

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