「足を洗い合う」 柳澤宗光牧師

レビ記19章9-18節 / ヨハネによる福音書13章1-35節   2026年4月26日

今朝、私たちに与えられたレビ記19章には、平和の民としての生活の姿が語られています。畑の隅まで刈り尽くさず、落ち穂を残し、貧しい人や寄留者のために余地を残すこと。また、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)と命じられます。


ヨハネ13章では、その愛が主イエス御自身の姿として示されます。主は、十字架に向かわれる直前、弟子たちの足を洗われました。聖書は、「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハ13:1)と語ります。主は、ユダの裏切りも、ペトロの否認も、弟子たちの弱さもご存じでした。それでもなお、彼らを最後まで愛し抜かれたのです。


主は食事の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの足を洗われました(ヨハ13:4-5)。足を洗うことは、本来、身分の低い者の務めでした。主であり師である方が、弟子たちの足元にひざまずかれたのです。ペトロは戸惑い、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言います。しかし主は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもない」と言われました(ヨハ13:8)。


ここに信仰の原点があります。私たちがまず主のために何かをするのではありません。まず主が、私たちを洗ってくださるのです。弱さも、汚れも、罪も抱えたままの私たちに、主が近づき、愛し、赦し、仕えてくださるのです。


そして主は言われます。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハ13:14)。足を洗い合うとは、単なる親切ではありません。相手の前に身を低くし、弱さを責めず、痛みに鈍くならず、疲れた人、孤独な人、傷ついた人のそばに立つことです。私たちの生き方の中心には、この主の姿があります。上に立つことではなく、下に降りること。認められることではなく、仕えることです。


主はさらに、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように」と言われました(ヨハ13:34)。レビ記では「自分自身を愛するように」と語られました。しかし主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。隣人愛の基準が変わります。新しい愛の基準は、「自分自身を愛するように」ではなく、「主がわたくしたちを愛するように」です。愛の基準は、主の愛にあるのです。


主に洗われた者が、互いに仕え合う。主に赦された者が、互いを裁かず受け止め合う。そこに、あるべき世界の姿があります。私たちは、弱さを抱える人を大切にし、目立たない務めを尊び、主の愛を具体的に現す群れとされますように。世界の一人ひとりが、互いに足を洗い合う者とされますように。平和がありますように。

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