「主による回復」柳澤宗光牧師

サムエル記上16章14-23節 / マルコによる福音書5章1-20節    2026年6月14日

サムエル記上16章には、イスラエルの初代の王サウルが登場します。サウルは、かつて神に選ばれ、王として立てられた人でした。しかし、神の御言葉に聞き従うことを失い、「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」と記されます。これは、神が悪をなさるという意味ではありません。神との交わりを失った人間が、内側から深く乱され、平安を失っていく姿を表しています。外側には力や地位があっても、神から離れる時、人は恐れ、不安、怒り、孤独に捕らえられてしまうのです。


しかし神は、サウルを見捨てられませんでした。羊番の少年ダビデを遣わし、その竪琴の音によってサウルに慰めを与えられました。主の霊を受けたダビデを通して、神はなお苦しむサウルに近づいてくださったのです。


マルコによる福音書5章には、墓場に住む一人の人が登場します。彼は汚れた霊に取りつかれ、人々から恐れられ、遠ざけられ、自分自身を傷つけながら生きていました。しかし主イエスは、その人を避けることなく、墓場のような場所にまで来てくださいます。そして、「汚れた霊、この人から出て行け」と命じられます。


主イエスは、「名は何というのか」と尋ねられました。それは、この人をただ問題のある者としてではなく、神の前にある一人の人として見てくださる問いでした。主は、人を支配する力の奥にある、その人自身を取り戻してくださるのです。


やがて人々が見ると、その人は「服を着、正気になって座っている」者とされていました。これは、主による回復の姿です。失われていた尊厳が取り戻され、神の前に平安を与えられたのです。


癒やされた人は、主イエスに従いたいと願いました。しかし主は、「自分の家に帰りなさい。そして、主があなたを憐れんでくださったことを知らせなさい」と言われました。墓場から家へ、孤独から共同体へ、叫びから証しへ。主はこの人を新しい命へと送り出されたのです。


私たちもまた、主に憐れまれ、回復された者として生きます。多くを語れなくてもよいのです。「主が私を憐れんでくださった」。その恵みに生かされる姿そのものが、主による回復を証ししていくのです。     

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