「悲しみは喜びに」 柳澤宗光牧師

創世記18章23-33節 / ヨハネによる福音書16章12-24節   2026年5月10日

創世記では、アブラハムが滅びようとするソドムのために神の前に立ち、憐れみを求めて執り成します。正しい者を悪い者と共に滅ぼされるのかと問い、五十人、四十五人、四十人と、ついには十人まで願い続けます。そこにあるのは、滅びゆく者を見捨てることのできない悲しみと愛です。祈りとは、他者の痛みを自らの痛みとして神の前に差し出すことです。教会もまた、この世界の苦しみのために祈る群れです。

ヨハネ福音書では、主イエスが十字架を前に、弟子たちの悲しみをすでに見つめておられます。弟子たちは、これから起こる出来事をまだ理解することができません。しかし主は、その弱さを責めず、「今、あなたがたには理解できない」と受け止め、真理の霊が導いてくださると約束されます。私たちもまた、人生の中で、すぐには受け止めきれない悲しみに出会います。しかし、その時にも主は共にいてくださり、聖霊が支えてくださいます。

そして主は、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と語られます。悲しみは、なかったことになるのではありません。涙や痛みが無意味になるのでもありません。しかし、十字架と復活の光の中で、悲しみそのものが新しい意味を与えられ、喜びへと開かれていくのです。

主イエスご自身も、ラザロの墓の前で涙を流し、エルサレムのために嘆き、十字架で人間の罪と痛みと死を担われました。主の愛は、悲しみを避ける愛ではなく、悲しみの中に共にある愛です。

教会は、アブラハムのように執り成し、主イエスの約束に支えられて希望に生きる群れです。悲しみの中にある人々のために、世界の痛みのために祈る時、そこには隣人への愛があり、神の平和を求める祈りがあります。「悲しみは喜びに変わる」。この確かな希望を携えて、私たちも祈りつつ歩んで行きましょう。     

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