「火に似ていないか」柳澤宗光牧師
エレミヤ書23章23-33節 / ガラテヤの信徒への手紙5章2-11節 2026年7月5日
今朝与えられた御言葉は、「人を本当に生かす言葉」とは何かを私たちに問いかけています。エレミヤの時代、偽りの預言者たちは「夢を見た、夢を見た」と言いながら、神から与えられた言葉ではなく、自分の心から出た言葉を語っていました。それは人々を悔い改めへ導く言葉ではなく、耳に心地よいだけの言葉でした。
しかし主は言われます。「誰かが身を隠したなら、わたしは彼を見つけられないと言うのか。」神の前には、私たちの罪も偽りも隠すことはできません。しかし同時に、私たちの悲しみも涙も、神の前には隠されていません。神は愛のまなざしをもって、私たちを見ておられるのです。
さらに主は、「もみ殻と穀物が比べものになろうか」と言われます。人の心から出た軽い言葉は、〔もみ殻〕のように人を養うことができません。しかし神の言葉は、〔穀物〕のように私たちの命を養います。そして、「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」と語られます。神の言葉は、私たちの頑なな心を焼き、砕き、〔悔い改め〕へと導く〔命の言葉〕です。
一方、ガラテヤの教会では、「割礼を受けなければ救われない」と教える人々がいました。しかしパウロは、「もし割礼を受けるなら、キリストは何の役にも立たない方になります」と断言します。救いは、人間の条件や努力によるのではありません。ただキリストの恵みによって与えられるのです。
私たちは弱く、信仰も不十分に思える者です。しかし、だから救われないのではありません。十字架のキリストが、私たちを赦し、自由にし、愛へと遣わしてくださいます。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」とパウロは語ります。恵みによって自由にされた者は、隣人に仕える者とされるのです。
大泉ベテル教会も、小さな群れとして、御言葉に養われ、祈りと奉仕の歩みを続けてきました。いと小さき人、傷ついた人、孤独の中にある人と共に歩むことは、私たちの力ではなく、ただキリストの恵みによるものです。私たちは〔もみ殻〕ではなく、〔命の穀物〕である神の言葉に聞き続けます。その御言葉に砕かれ、悔い改めへ導かれ、愛に仕える歩みへと遣わされていくのです。