「見えるようにされる」柳澤宗光牧師
列王記上10章1-13節 / マルコによる福音書8章22-26節 2026年7月12日
今朝の二つの御言葉に共通するのは、「見る」ということです。それは、ただ目で物を見ることではありません。神の知恵と恵みに目を開かれ、これまで見えなかったものを、見えるようにされることです。
シェバの女王は、ソロモンの〔知恵の高さ〕を聞き、心の中にある難問を携えて遠い国から訪ねて来ました。そして、ソロモンの〔知恵〕や働きを自分の目で見て、「聞いていたことは本当でした。しかし、自分の目で見るまでは信じていませんでした」と語ります。さらに、その〔知恵〕の背後におられる神を見いだし、「あなたの神、主はたたえられますように」と賛美しました。
私たちも、さまざまな問いを抱えて礼拝に集います。なぜ苦しみがあるのか。病や老い、別れの中で、どう神を信じればよいのか。すぐに答えが与えられなくても、御言葉と祈りを通して、主の恵みが少しずつ見えるようにされます。
マルコ福音書では、主イエスが目の見えない人の手を取り、村の外へ連れ出されます。そして目に触れ、「何か見えるか」と尋ねられました。その人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えます。まだ、はっきりとは見えていません。そこで主イエスは、もう一度その目に手を置かれます。すると、すべてがはっきり見えるようになりました。
これは、私たちの信仰の姿でもあります。私たちは主を信じています。しかし、神の御心や隣人の痛みを、いつも正しく見ているわけではありません。人を神に愛された一人の存在として見ることができない時もあります。
しかし主は、まだはっきり見えていない私たちを見捨てません。もう一度、御言葉を聞かせ、もう一度、祈りへと招き、もう一度、何度でも、その御手で触れてくださいます。
主は今も私たちに問いかけます。
「何か見えるか。」
問いや弱さを抱えたままでも、主の御手に委ねる時、私たちは少しずつ、主の恵みと隣人の姿を、はっきり「見えるようにされる」のです。