「大勢の人々が かわいそうだ」明星晃牧師
マルコによる福音書8章1-10節 / コロサイの信徒への手紙1章21-23節 2026年10月4日
今日は日本キリスト教団が定める「世界聖餐日と世界宣教の日」です。
世界聖餐日は、1930年代にアメリカ長老派教会で始まり40年代には全米に広まった超教派的な運動で、新旧の諸教派が相違を認め、分断・対立から一致に向かうものです。
世界宣教の日は、日本キリスト教団が教会一致の証しとして世界宣教に協力し合うため、各国への宣教師の派遣とアジア圏からの教団関係学校留学生を覚える日と定めています。
今日の主イエスの御業=“奇跡”と知られている「四千人の供食」というところですが、これは聖餐式のルーツ(聖餐伝承)であると言われます。「五千人の供食」は四福音書全てが伝えており、よく似た「四千人の供食」をマタイとマルコが加えています。一つの伝承が伝達される過程で二つに分岐したと推定されています。今日はマルコ福音書を中心にマタイ福音書とを行き来しながら、「世界」ということと、供食をされた主イエスの動機(心の動き)を読んでみたいと、私の推測(私見)も交えてお話しさせていただきます。
主イエスはガリラヤ湖のほとりの山に登って座っておられました(マタイ15:29)。聖書の時代の人々にとって「世界」は“見渡せる”とか“想像できる”範囲だったのではないかと思います。主イエスが『山の上で座る』と見渡せる範囲や人々から見られる=認知される範囲は相当広かったでしょう。『多くの人々は彼ら…を見て…すべての町からそこへ一斉に駆けつけ』(マルコ6:32)、『中には遠くから』(同8:3)つまり「異邦の地」から、国の境を超え“世界中”から主イエスの憐れみに望みをもって『人里離れた』地に集まりました。
大勢の群衆は『足の不自由な人、目の見えない…体の不自由な…口の利けない…多くの病人を…主の足もとに横たえ(マタイ15:30~)、耳が聞こえず舌の回らない人…に手を置いてくださるようにと願い(マルコ7:31~)』共に駆けつけました。宗教的戒律が簒奪する「命の再生」を望み、地域共同体からも接触忌避、排除、差別された病気の人や障害を負った人と共に主イエスの癒しの奇跡を求め、女性も子どもたちを含め全めた民の群れでした。
主はこれらの人々が貧農民、農奴、奴隷、賃労務者、“罪人”など被支配層であり、自ら空腹を満たす手段をもたない『飼い主のいない羊のよう有様を深く憐れみ』(Mc6:34)、『かわいそうだ』(8:2)と心を深く同情されました。『かわいそうだ。原語splangnizomaiは「気の毒に思う・同情を寄せる」など“憐れみの心”を表す言葉であり、放蕩息子の兄の“怒り”に反して『憐れに思い…接吻した』(ルカ15:20)父の心を現わしています。まさに、供食=聖餐は「神様の深い憐れみもってわたしたちを招く」(教団式文)と言えます。主イエスは招きに応える世のすべての人に分け隔てなく供食=聖餐を与けてくださいます。
『人々は食べて満腹し』(マルコ8:8)ました。満腹chortazoという言葉は転義として「満ち足りる」の意味があり、マタイ福音書の「八つの幸い」の中の『義に飢え渇く人々は…満たされる』(Mt5:6)と、人間の魂の必要が満たされることにも用いられています。
人々は神の「義=愛」の真実を体験し、喜びに“満たされて”感謝したでしょう。
主イエスがなさった“御業=奇蹟”はほとんどが人々への「憐れみの心情」の発露だったことを当時の人々は伝え聞いて知っていました。『イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広め』(マルコ7:36)ていたからです。供食の奇跡的出来事は地域を超えて口伝され、民族、社会階層、年齢性別、等に限らず言い伝わったでしょう。
主イエスから『神の福音のために選び出され、召された』(ロマ1:1)使徒たちや弟子たちは各地に派遣され『世界中の人々に宣べ伝えられる(ことに)仕えるパウロ』(コロサイ1:23)たちにより福音は「東方の果て、日本」にも届けられました。それから後はさまざまな口止めや迫害を超えて、教会は福音の宣教と御業の実践を弛み無く続けているのです。