「わたし(キリスト)の平和を与える」明星晃牧師

ヨハネによる福音書14章25-31節 / ローマの信徒への手紙5章1-5節 2026年8月30日

 ヨハネ福音書の14-17章は他の共観福音書に併行記事がない独自の出来事の記述です。主イエスはここで弟子たちに最後の教えをされ、「父よ」と神様に祈りを捧げました。
 これから捉えられ、十字架刑に処せられ「死にて葬られる」ことが迫っています。宣教の活動と生活を共にした弟子たちとの別れに際し、主は弟子たちが『心を騒がせ、おびえる』苦難に直面することを心配していました。かれらのことを愛していたからです。
 弟子たちに『主の平和を与える』と仰言いました。心を平静にし、主が話した『すべてのこと』を教え思い起こさせる主の名による『聖霊』を父(神)が遣わすとの約束です。これは『主イエスが与えてくださる平和』です。それは『世が与えるように…ではない』と仰言いました。
さて、世が与える平和とはどのようなことが考えられるでしょうか?     
 今年も暑い8月を迎えます。ここ日本では毎年8月は「平和」を再確認する時です。広島・長崎への原爆投下、また“軍国日本”の敗戦。そして「平和国家」「平和憲法」。
 今年は「言葉としての“平和憲法”の力」を実感させられました。トランプ大統領からイラン攻撃の戦争に直接参加を要請された高市首相が「法律の範囲内で、できない」と断ったとのニュースです。「法律」とは「憲法9条」関連のことです。保守派と言われる首相の本音は“参戦、賛成!”であっても、憲法とは政治の権力者=行政の執行者を縛る法規としての短い『言葉』の力を現実の出来事として再認識いたしました。
 キリスト教の教会では主イエスが与える『平和』は重要課題として検討されます。
 そこで“世の”議論を主導する「平和学の父」と呼ばれるノルウェー出身の平和学者ヨハン・ガルトゥング氏(1930-2024・立命館大学の教員を務めたことあり。独立した学問分野として平和学を広げた)の理論の概要をお伝えしたいと思います。
 ―「平和」は「消極的的平和」と「積極的平和」の二種類がある。「消極的平和」は戦争のない状態である。戦争は「直接的暴力」であり、それに反対する「反戦」が「消極的平和」である。一方、戦争をしていなくても国内では「貧困・差別・疫病・分断(ヘイト・排除etc)」の「構造的暴力」と向き合う努力をするのが「積極的平和」である。隣国・周辺国とは友好的外交、相互援助・協力などで平和を維持する。この二つの平和は対立概念ではない。双方とも平和を実現する目的で共通する―
 イラン戦争への参戦を断ったのは「消極的平和」の行動であった言えます。そしてさらに日本国憲法は前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」と表明しています。安全の保持、即ち「安全保障」は他の諸国民への信頼に依拠する「積極的平和」の構築を表明しているのです。他国側に勝る重武装した(侵攻を防ぐ=勝てる)軍隊を常備し“敵の武力”に勝る実力を常備する“国力”を友好外交、相互援助、民生福祉に充てる「平和」を構築します。
時に「お花畑」などと揶揄されますが、実は、政策は現実主義的だと仰います。
 さて、主イエスのご受難を前にした弟子たちに『心を騒がせるな、おびえるな』と仰言いました。『心を騒がせる、おびえる』とは人間の、一人一人の個人が危機的な状況に直面したときの感情表出だと言えます。主イエスが憂慮するのは、厳しい日常生活にある弟子たち=民衆の『心の平安・安心(=平和)』を第一に据える『愛』。その愛は『わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っている』のが主イエスの愛です。わたしたち人間も行えるように『聖霊をお遣わし』くださいました。
 パウロは『神の栄光にあずかる希望を誇り…苦難をも誇りとします』と宣べます。
 主イエスは私たちに『さあ、立て。ここから出かけよう』と声を掛けられます。

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