「生ける水の源へ」 柳澤宗光牧師

エレミヤ書2章1-13節 / マルコによる福音書3章20-27節     2026年3月1日

受難節第2主日、イエス・キリストが、十字架へ向かわれる主の苦しみを「遠くから眺める」のではなく、その苦しみを必要とする私たちの姿を神の前に差し出す時です。十字架は、私たちの胸の内にある〔渇きの本質〕を照らし出す光です。

エレミヤ書2章は、神の愛の記憶から始まります。「わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、荒れ野での従順を思い起こす」。私たちが初心を忘れ、信仰が薄くなる時にも、神は「最初の愛」を覚えておられ、手を放されません。そして、エレミヤは続けて問います。「わたしにどんな落ち度があったので、遠く離れて行ったのか」。離反は、礼拝より他の優先順位が大きくなり、祈りより不安や計画が心を占めるという、小さなずれの積み重ねから起こります。生ける神を離れた人は自由になるのではなく、「空しいもの」を追い、いくら飲んでも渇く「渇きを癒やさない水」に支配されていきます。

主は民の罪を二つに凝縮されます。「生ける水の源」であるわたしを捨てただけでなく、水をためることのできない「壊れた水溜め」を自分で掘ったことです。「神の愛と約束」という「湧き出る水」を捨て、「自分で管理できる安心」を得ようとします。「自己の正しさ、他人からの評価、財産を溜めようとする」思いです。しかし、それらは漏れ、心の奥の渇きは埋まりません。渇きの根は神の不在にあるからです。

マルコ3章では、癒しと解放をもたらすイエス様が誤解され、家族には「気が変になった」と言われ、律法学者には「悪霊の力だ」と断罪されます。神の御業を神のものとして受け取れない罪が、十字架への道を開きました。主は「強い者」を縛るたとえを語られます。ここで「強い者」とは、人を渇かせ、分裂させ、恐れによって支配する力。まさに「壊れた水溜め」です。私たちの努力では縛れないそれらの力を、主は、打ち破るために来られました。しかも方法は剣や暴力ではなく、ご自身が、十字架につけられる道を通って、「強い者」の支配を打ち破られます。勝利は敗北の姿をとって現されるのです。受難節は、この「愛の逆説」を見つめる時です。

十字架は、私たちが「生ける水」を捨て、神を排除してきた罪を暴きます。しかし同時に、渇く者のために神が降りて来られ、罪を背負い、和解を与えてくださる福音を示します。神はなお語られます。「あなたの若い頃の愛を、わたしは覚えている」。今、私たちは、「壊れた水溜め」を手放し、「生ける水の源へ」と立ち帰るよう招かれているのです。

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