「隣人(となりびと)の誕生」 海老澤基嗣牧師(野の花伝道所)
ヨハネによる福音書7章53節~8章11節 2025年11月30日
エルサレム神殿の境内に朝早くイエスは入り民衆の何人かと話をしていました。そこへドタドタと6~7人の男たちがやってくる。律法学者かファリサイ派の連中のようです。見ると、ひとりの女を引き連れている。女の髪はボサボサで、服装も乱れており、顔色は青ざめている。
「先生、この女は姦通の現場で捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」それきたか、とイエスは思う。彼らのやりかたはいつもこうだ。弱い立場の者(ここでは女とイエス)が圧倒的に不利な事態を前提にしていろいろ試してくる。モーセの律法には(申命記22:22―24)姦淫した男と女は二人とも町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならないとある。姦淫したのは女だけではない、女と男だ。ではなぜ律法の定めるとおりに女と男と二人捕まえないのか。つまり、男のほうとはすでに「話がついている」。今後気を付けると反省したかカネをいくらか払ったかで決着している。問題は姦淫した女を石打ちの死刑にすることにイエスが同意するかしないかだ、ということになっている。これが彼らの汚さだ。21世紀の日本ならイエスはこのように反論を開始できたかもしれません。一人の女の罪を裁くために何人もの男が女を引き連れてくる……これだけで大変なセクハラです。でも2000年前のユダヤです。
イエスはどう対処すればよいかわからなかったと思います。この女を石打で殺しなさいとは全然思っていないから、絶対言えない。反対にこの女を殺してはいけないと言ったら、彼らの思うツボにはまってしまう。イエスはモーセの律法を否定したと宣伝されれば、イエスの人気はガタ落ちです。YESかNOかの2択の選択肢しかないなかで、どちらを答えてもイエスの納得できる結果にはならない。
イエスはその場にかがみ込み、指で地面に何かを書きはじめようとした。……すると男たちの足元、つま先から小さな風が起こり砂を動かしていくのをイエスは見た。7人の律法学者、ファリサイ派がいたが、その7人のそれぞれの足元にヨハナン68、ヨアブ54、サウル44、シモン40、ナタン33、ヨナタン26、アビナダブ18というように砂の文字列が形成された。イエスはそれを見て男たちの名前と年齢を示していると思った。いや、年齢ではなくその男が最近、女と姦淫したのは何歳の時であったかを示していると見た。男たちも自分の足元の異変に気付いて足元の文字を凝視した。その場の空気が少し変わったように思えた。イエスは彼らの名前と姦淫年齢を示す砂文字を自分の指で消していった。イエスは地面に何かを書いていたのではなく、何かを消していたのでした。男たちの過去の過ちを赦したのです。
イエスは身を起こして言います。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に何かを書き出した。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは身を起こして言う。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
こうしてイエスは姦淫の現場で捕らえられた一人の女性のいのちを救うことができました。彼女にとっては「今まで生きてきた中でいちばん恐ろしい一日」であったでしょう。でも最終的にはいちばんハッピーな一日だったのではないでしょうか。よく知らない一人の男が自分のような女のために全身全霊を尽くして石打の死刑から自由の身に解放してくれたのですから。たぶん彼女の人生の中で出会った最高、最上の隣人がイエスであったといえるでしょう。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
イエスのこの一言で7人の男たちも解放されたのではないでしょうか。イエスをやり込めようと意気込んでいたとき、彼らは律法をよくわきまえた正義の男たちでした。それは彼らがこの女のことを「他人事」として論じられる「部外者」ないし「傍観者」だったからです。その場の空気が変わったように感じたとき彼らは、自分たちも性的問題については部外者でも傍観者でもなく「当事者」であることを思い知らされたのでしょう。当事者である自分のうしろめたさ、思い上がりに気づかされたとき、彼らは一人また一人とその場から立ち去りました。人間の言葉はたいてい無力です。でも、ただ一言の言葉が人を動かし、世界を変えることもあるのです。その意味でこの男たちの傍観者性、思い上がりを気づかせてくれたイエスは、彼らにとっても「一生に一度でいい、出会いたかった最高、最上の隣人」だったのではないでしょうか。
クリスマスの喜びの時が近づいています。クリスマスの何がうれしいのか、いろいろあるでしょうけれども、わたしはわたしやあなた、すべての人の素晴らしい隣人、となりびとイエス・キリストが誕生したこと、わたしたちの人生の隣に現れたということを祝い喜びたいと思います。