「共におられる神」柳澤宗光牧師

ヨナ書1章1節-2章1節 / マルコによる福音書4章35-41節    2026年2月15日

受難節前第1主日、私たちはレントへ入る直前に、改めて「神の呼びかけ」を聴き直します。私たちが神を探し当てる前に、主が先に近づき、先に語りかけてくださる。ヨナ書もマルコ福音書も、その順序を示し、呼びかけの中心におられるのは「共におられる神」です。


ヨナ書は「主の言葉が…ヨナに臨んだ」(ヨナ1:1)と始まります。呼びかけは私たちの準備が整ったから来るのではなく、都合や計画を揺さぶる形で臨むため、恵みであると同時に怖さも伴います。ヨナは「主から逃れようとして」(ヨナ1:3)タルシシュへ向かいます。ニネベとは、恐れと怒り、赦したくない相手、関わりたくない痛み。私たちが目をそらしたい「敵」の象徴です。逃げるヨナ、恐れる弟子たち。形は違っても、私たちも神の呼びかけに弱い者です。


しかし決定的なのは、逃げても恐れても、主が見捨てないことです。ヨナの物語では「主は大風を海に向かって放たれた」(ヨナ1:4)。それは滅ぼすためではなく、取り戻すため。船長の「起きてあなたの神を呼べ」(ヨナ1:6)という言葉によって、神は別の口を通してでも祈りへ呼び戻されます。ヨナは「わたしを海に投げ込め」(ヨナ1:12)と言い、事態は動きます。異邦人は主を畏れる(ヨナ1:14-16)。人の失態すら、神は救いの道に織り込まれます。私たちにとって「海に投げ込まれる」とは、握りしめているもの―正当化、赦せない思い、「私は正しい」という頑なさ―を手放すことです。そして「主は巨大な魚に命じて…呑み込ませた」(ヨナ2:1)。終わりではなく、命へ向かう備えが与えられます。


マルコでは、主の言葉が舟を出させ、「向こう岸へ渡ろう」(マコ4:35)と導きます。しかし嵐の中で弟子たちは叫びます。「おぼれてもかまわないのですか」(マコ4:38)。主は同じ舟におられ、「黙れ、静まれ」(マコ4:39)と語られます。必要なのは嵐のない人生ではなく、嵐のただ中に主が共におられる現実です。「なぜ怖がるのか」(マコ4:40)は責めではなく、見る向きを主へと変える招きです。


先週2月9日、シュベスター眞山知恵子を主のもとへ送りました。海が凪ばかりではなかったはずです。しかし、主は見捨てず、恐れを信頼へ導かれたはずです。レントの入口で、主の声を聴き直し、頑なに抱えているものを手放し、同じ舟におられる主を見上げる時です。十字架へ向かわれる主が先を歩まれるから、私たちも祈りつつ「向こう岸」へ渡り始めることができます。主はいつも「共におられる神」なのですから。

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