「神の知恵」  柳澤宗光牧師

箴言2章1-9節 / コリントの信徒への手紙一2章6-10節   2026年2月1日

顕現後最終主日、私たちは「知恵」(箴2:1-9、Ⅰコリ2:6-10)という御言葉に招かれています。私たちは日々、何を選び、どの道を歩み、どのように言葉をかけ、どこで踏みとどまり、どこで手放すのか、迷いの中を生きています。経験があっても迷い、信仰があっても迷い、祈っても答えがすぐ見えない。しかし聖書は、「知恵を授けるのは主」「主の口は知識と英知を与える」(箴2:6)と語り、私たちを祈りへと導きます。ここで教えられるのは、世の知恵と神の知恵がしばしば異なるということです。世の知恵が「うまくやっていく」「損をしない」「先を読む」方向へ向かいがちなのに対し、神の知恵は「主を畏れることを悟り、神を知ることに到達する」(箴2:5)知恵、すなわち神ご自身へと導く知恵です。箴言はそれを、銀や宝を探すように求めよと促します。

その知恵は、まず「受け取る心」から始まります。御言葉に耳を傾け、「心を向ける者」に、主は知恵を与えられます。また知恵は「求める者」に与えられます。声を上げて求め、宝を探すように探し続ける者を、主は導かれます。さらに、知恵は私たちが内側から作り出すものではなく、主が賜物として与えてくださる「恵み」です。だからこそ、その知恵は私たちを正義と公平へ向け、弱い者が押しつぶされず、声なき者の痛みが見過ごされない共同体へと導きます。ベテスダ奉仕女母の家の歩みも、祈りの中で主の知恵を求めつつ進められてきたことを覚えます。

パウロはさらに、「神の知恵」がこの世の支配者には理解されなかったと言います。なぜなら「神の知恵」は「十字架のかたち」を取ったからです。「神の知恵」は力で押し切る知恵ではなく、自分を与え、仕え、赦し、共に担う知恵です。そしてこの知恵は、人間の努力だけで「発見」されるのではなく、霊によって「啓示」されるものです。だから私たちは祈ります。「主よ、示してください。神の知恵を与えてください」と。「神の知恵」は、主が備え、霊が示し、私たちを十字架の道へ導いてくださいます。 

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