「みちびく言」 柳澤宗光牧師
イザヤ書49章7-13節 / マタイによる福音書2章1-12節 2025年12月28日
〔降誕節第1主日〕は、「言が肉となった」(ヨハ1:14)という出来事を受けて歩み始める最初の主日です。神は抽象的理念ではなく、人間の弱さのただ中に身を置かれます。涙・沈黙・痛み・十字架を通して語られる〔神の愛〕が「肉となった言」であり、クリスマスは、その〔救い〕が歴史に具体的に入り込んだ日です。降誕節は、その喜びにとどまらず、私たちが「救いの光を証しする者」として歩み始める時です。
イザヤ49章とマタイ2章は、旧約の〔預言〕と、新約の〔成就〕が響き合う箇所です。神は「取るに足らない小さき者」を通して、〔救い〕を世界へ広げると約束されます。イザヤは「諸国民が主の僕に集う」と語り、マタイは「異邦人の博士たちが、幼子イエスを礼拝する姿」を記します。〔救い〕は民族や文化の境界を越え、すべての人に開かれています。
イザヤ49章では、蔑まれた僕が「諸国民の光」と、されます。人間的には〔無力な者〕を神は選び、「世界の希望」とされます。この逆転は十字架のキリストを予兆しています。〔弱さと苦しみ〕を通してこそ〔救い〕が現れ、天と地が喜び歌うほどの普遍的な〔救い〕がもたらされます。
マタイ2章では、東方の博士たちが星に導かれ、長い困難な旅の末に幼子を礼拝します。彼らは異邦人であり、その礼拝は、〔救い〕が、国境を越えて広がる象徴です。博士たちの旅路は、現代の私たちの信仰の旅と重なります。今、「神の言葉」は「輝く星」となって導き、私たちを、必ず救い主へと至らせます。「主が御顔を向けてあなたを照らす」という確かな希望が、そこにあります。
〔降誕節第1主日〕は、〔弱さ〕を通して現れる〔救い〕を信じ、異邦人にまで広がる光を証ししながら歩み始める日です。蔑まれた僕・幼子イエスに現れた神の力を覚え、教会もまた、社会の〔弱さ〕に寄り添いながら「光を証しする使命」を担います。博士たちの礼拝が示すように、〔救い〕は、すべての人に開かれています。神の「みちびく言」を信じ、心を貧しくして歩むとき、必ず、〔救い〕の光へと導かれます。