「子どものように信頼して」 柳澤宗光牧師

イザヤ書46章4節/マタイによる福音書4章18-22節    2025年10月26日

私たちは、「悔い改めないと救われない」「悔い改めたから救われた」と考えがちです。確かに悔い改めは信仰において重要ですが、神の救いはそれに対する報酬ではありません。神は、私たちが完全に悔い改めたから救うのではなく、子どものように信頼し、救いを求める時、すでにその腕を広げておられるのです(申32:11、詩91:4)。

イザヤ書46章4節には「わたしは造ったゆえ、わたしが担い、背負い、救い出す」とあります。そこには条件がなく、神の救いは一方的な愛の現れです。人間は神のかたちに創られた存在であり、神はその被造物を無条件に救おうとされます。それは、泣く子を抱きしめる親の姿に似ています。子どもが完璧に謝ったからではなく、愛する存在だからこそ、親は助けるのです。

マタイによる福音書4章では、イエスが漁師たちに「わたしについて来なさい」と呼びかけると、彼らはすぐに網を捨てて従いました。この場面に悔い改めの言葉はなく、彼らはただイエスのまなざしと語りかけに信頼して応えたのです。神は、〔完全に整えられた者〕を待つのではなく、〔不完全なままでも信頼して歩み出す者〕を喜んで迎えてくださいます。

「砂の上の足跡」という詩にあるように、人生の苦しい時期に足跡が一つしかなかったのは、主が私たちを背負ってくださっていたからです。神の救いは、私たちの努力の結果ではなく、神の愛の深さによって与えられるものです。

教会は、完全な者の集まりではなく、神に信頼する者の共同体です。〔悔い改めた者〕も、〔悔い改めきれない者〕も、神の前に立ち、〔救いを求める者〕として共にいます。教会は、神の愛を信じる者が集まり、互いに支え合い、祈り合う場所です。 私たちは、〔悔い改めた〕からではなく、〔子どものように信頼し、救いを求めた〕からこそ、神の愛に包まれているのです。神は、私たちを造り、「背負い、救い出す」と約束してくださっています。その約束は、私たちの信仰の強さによってではなく、神の愛の深さによって成り立っています。        

類似投稿